坂と道 of 本郷界隈

菊坂001.jpg(1)菊坂

「此辺一円に菊畑有之、菊花を作り候者多住居仕候に付き、同所の坂を菊坂と唱え。坂上の方菊坂台町、坂下の方菊坂町と唱候由」となる。今は本郷通りの文京センタービルの北横から西方1丁目の台地の下までの長いだらだら坂を菊坂と言っている。

梨木坂.jpg(2)梨木坂

「梨木坂は菊坂より丸山通りなり、むかし大木の梨ありしゆへ坂の名とす」の通り梨の大木が在ったとされる。また商家等も多く付近には学生の寄宿する下宿屋も多かった。

炭団坂.jpg(3)炭団坂

真砂図書館の前を北へ菊坂へ下る急な坂である。この坂の由来は炭団などの商う者が多く住んでいた所と急な坂で往来の人々が炭団のように転んだとの意味があるとか。坂上の東角の崖上に坪内逍遙が住んでいた。

胸付坂.jpg(4)胸突坂

昔はこの胸突坂を菊坂と呼んでいたようである。享保年中の江戸絵図には現在の胸突坂にあたるところをキクサカと記されている。胸突坂の名称は急な坂を上る時の身体の形から名付けられたものである。因みに同名の坂は文京区内に3つある。

鐙坂001.jpg(5)鐙坂

菊坂の狭い谷に下る坂で菊水湯の近く。「鐙坂は御弓町より丸山へ下る坂をいひ、往古この処に武蔵鐙を製し初めしもの子孫ありて鐙を作るゆへ坂の名とすといへり」とある。鐙は馬の鞍の両側に下げて乗る者が足をかける馬具。また、一説には坂の形が鐙に似ているともある。

見返り・見送り坂001.jpg(6)見送り坂と見返り坂 

本郷3丁目の交差点から赤門寄りの文京センター前(菊坂へ曲がるところ)の本郷通りがややへこんでいる。江戸時代はかなり低かったそこに橋を架し別れの橋と言う。江戸時代に江戸追放の罪の者がこの別れの橋で放たれ南側の坂で涙で送ったから見送り坂、追放者が振り返ったので見返り坂と言った。

傘谷坂001.JPG(7)傘谷坂

湯島2丁目のある場所(現湯島2丁目交差点辺り)がくぼんでいて、ここを傘谷と呼んでいた。このくぼみに南北から坂道が出来て傘谷坂と呼んだ。

壱岐坂001.jpg(8)壱岐坂

壱岐殿坂とも呼ばれ、彦坂壱岐守屋敷、小笠原壱岐守下屋敷があった事から壱岐坂と呼ばれる様になった。現大横町通りから東洋大学まで。

大横町通り001.jpg(9)大横丁通り

本郷通りのりそな銀行角を入り壱岐坂への道が「大横丁通り」。この通りには関東大震災の被災したあと、耐火を意識して造られた木造建築の外観をタイル、モルタル等で覆う看板建築と呼ばれる建物が有る。

新坂001.jpg(10)新坂(外記坂)

「壱岐殿坂の北にありて小石川春日町に下る坂を新坂と唱ふ」とある。江戸時代に新しく開かれた坂。『江戸切絵図』の尾張屋清七板をみると、壱岐殿坂と東富坂の間に、ゲキサカとあり、坂上の西側に内藤外記という旗本屋敷がある。この屋敷に因んで、外記坂と呼んだとされている。

新坂(蓋平館)001.jpg(11)石坂新坂(蓋平館)

「英世神社々頭を斜に南西に通ずる一路あり、其窮る所、坂あり、谷に下る、新坂といふ、谷の口にて菊坂下、田町に通ず。」江戸時代に近くの坂より新しいので『新坂』と名付けられる。坂上の蓋平館別荘(現太栄館)に石川啄木が、明治四十一年に移ってきた。宿は昭和二十七年に焼けた。宿の前に歌碑がある。

新壱岐坂001.JPG(12)新壱岐坂

関東大震災に旧元町町周辺は一面焼き尽くされてしまった。ここに本郷2丁目から東京ドームに向って広い道路が開通し、これにより壱岐坂は切断されこの広い道を新壱岐坂と呼んだ。

菊坂下道02.JPG(13)菊坂下道

本郷・菊坂に沿って川が流れっていたと言う。この川の流れが菊坂より一段下がって菊坂に平行する。これが今では測道となり、いつしか菊坂下道と言う様になった。

本妙寺坂001.jpg(14)本妙寺坂

本郷(旧真砂)小学校前を、菊坂に下る坂。本妙寺前の坂なので、本妙寺坂という。本妙寺は、移転して今はないが、江戸時代の振袖火事(明暦の大火)の火元として有名。〝遠山の金さん〟こと遠山左衛門尉景元や千葉周作の墓があった。

油坂001.JPG(15)油坂

順天堂大学の校舎の間を、外堀通りに下る坂。坂上に本郷給水所公苑がある。油坂は、揚場坂ともいわれる。お茶の水の谷の神田川の堀端に、町内の物揚場(舟をつけて荷物を揚げおろしする場所)あった。

東富坂001.JPG(16)東富坂(真砂坂)

明治四十一年に開通した路面電車(本郷三丁目から伝通院前まで)のために、本郷三丁目から直線に下る急な坂道から坂上で北側へ、ゆるやかに文京シビックセンター前に下る坂道が作られた。旧真砂町へ上る坂なので真砂坂とも言われる。江戸時代、松平右京亮の中屋敷があり、右京山(右京ヶ原)といわれ、『姿三四朗』の舞台となる。

鐙坂測道001.jpg(17)鐙坂測道

鐙坂からの測道は、古い木造家屋が林立し、大正・昭和を偲ぶ。

西片入り口.JPG(18)学者の町・西片入口

多くの学人、文人達が住んだ閑静な住宅地への入り口。

富士見坂001.JPG(19)富士見坂

本郷給水所公苑の西側を過ぎて、外堀通り(お茶の水坂)に下る坂。江戸時代から富士見坂という名のついた坂は、今でも東京に多い。江戸時代は高い建物もなく、富士山がお茶の水の谷を越えて、よく見えたのであろう。

建部坂001.jpg(20)建部坂(初音坂)

江戸時代に、建部六右衛門の屋敷があった事から名付けられた。江戸時代、このあたりの鶯(うぐいす)の鳴き初めが早く、初音坂ともいわれた。

忠弥坂001.jpg(21)忠弥坂

江戸幕府の転覆を謀り、未然に発覚した慶安事件(一六五一)を由井正雪と共に起こした、丸橋忠弥の槍の道場があり、捕えられた場所の近くということで、忠弥坂とよばれるようになった。

お茶の水坂001.jpg(22)お茶の水坂

水道橋から神田川の北側に沿って、お茶の水へ上る坂。〝お茶の水〟のいわれは、江戸時代、神田川の掘割工事以前に、あった高林寺の境内に湧き水があり、御茶の水として将軍に献じたので有名になったことで、このあたりを〝お茶の水〟と唱えるようになった。

無縁坂001.jpg(23)無縁坂(武縁坂)

江戸時代、この周辺は武家屋敷が多く、武家に縁、武縁坂ともいわれた。森鴎外の作品『雁』の主人公岡田青年の散歩道ということで、多くの人に親しまれる坂となる。また、「ひまわりの歌」の主題歌で、さだまさし作の〝無縁坂〟の舞台でもある。坂を下れば不忍の池である。

切通坂001.jpg(24)切通坂

湯島の台地を切り開いて出来た坂なので切通坂と言われる。はじめは急な石ころの道だったが明治37年に上野広小路〜本郷三丁目間に電車が開通して緩やかになった。

湯島天神夫婦坂01.JPG(25)天神夫婦坂

湯島天満宮の境内から切通坂に下る階段を夫婦坂と言う。

男坂001.JPG(26)天神男坂

湯島天満宮の境内から東へ下る、38段の急な石段坂

女坂001.JPG(27)天神女坂

急な男坂に対し女坂は階段の途中に足休みもあり、緩やかなので女坂と呼ばれている

中坂001.jpg(28)中坂(仲坂)

江戸時代には、新しく坂が出来ると新坂と呼んだ。また、二つの坂の中間に坂ができると、中坂と名づけた。このあたりは、江戸時代から、湯島天満宮の門前町として発達し、現在も下町のおもかげを色濃く残している。

実盛坂001.JPG(29)実盛坂

湯島天満宮の青銅の鳥居から、まっすぐお茶の水方向へ行って、中坂と三組坂の中間を下る非常に急な石段坂である。この坂下に実盛塚、首洗いの井戸や産湯の井戸があったという伝説もある。

ガイ坂001.JPG(30)ガイ坂(芥坂)

三組坂の中腹を北に、実盛坂の下の方へ下る坂。旧三組町の裏通りの横町で、ごみを処理する捨場だったとされている。

三組坂001.jpg(31)三組坂

昭和四十年以前は、この界わいは「湯島三組町」という町名であった。その町なかの坂だということで、「三組坂」と呼ばれた。江戸時代、三組の御家人衆の拝領地であったので、「三組町」と呼ぶようになったと伝えられている。

妻恋坂001.jpg(32)妻恋坂(大超坂・大長坂・大帳坂・大潮坂)

江戸の初めこの坂に霊山寺という寺があり、開山が大超和尚という高僧で、霊山寺の北側の坂を和尚の名をとって大超坂と呼んだ。後世になり大超和尚の名を忘れて、大長、大帳、大潮と字を当てた。妻恋坂と呼ばれるようになったのは、妻恋神社が坂の北側に移ってきてからである。

立爪坂001.JPG(33)立爪坂(芥坂)

妻恋神社の前の妻恋坂の中程を北に上がる短い坂。爪を立てて上がる坂という意味で、もとはけわしい坂あったと思われる。現在は坂の上と下の部分は石段になっている。また、芥坂とも名づけられていて、芥捨場が坂のそばにあったとも言う。

清水坂001.JPG(34)清水坂

江戸時代には、妻恋坂の前の名の大超坂のおこりになった霊山寺があり、明暦の大火後移転した。その霊山寺の敷地は、明治になって、清水精機会社の所有になった。大正に入って、清水精機会社は土地を町に提供し坂道を整備した。町の人たちは清水家をたたえて「清水坂」と名づけ、石柱を建てたという。

横見坂001.JPG(35)横見坂(横根坂)

富士山がよくみえ、この坂を上るとき、富士を横見することから、誰いうとなく横見坂と名づけられたという。坂の西側一帯は旧湯島新花町。ここに明治三十年頃、島崎藤村が住み、ここから信州小諸義塾の教師として移って行った。作品『春』の中に「湯島の家は俗に大根畠と称へるところに在った」とある。

樹木谷坂001.JPG(36)樹木谷坂(地獄谷坂)

江戸時代、この坂下一帯の谷は、樹木が繁っていたのであろう。その樹木谷に通ずる坂ということで、樹木谷坂の名が生まれた。地獄谷坂はその音のなまりである。

新妻恋坂001.JPG(37)新妻恋坂

関東大震災後の都市計画により、湯島二丁目バス停から、隅田川の蔵前橋へ通ずる、通称蔵前橋通りが造られた。この蔵前橋通りの新設によってできた坂は、妻恋坂に平行しているので、新妻恋坂と名づけられた。江戸の坂である妻恋坂に対し、新妻恋坂は東京の坂、昭和の坂である。

相生坂.JPG(38)相生坂(昌平坂)

聖堂の南側を、神田川をはさんで、駿河台側の淡路坂と平行して並んでいるので相生坂といわれた。また、聖堂に祭られている孔子の生地、中国の昌平郷にちなんで、昌平坂ともいわれる。寛政の改革によって、儒学が重視され、昌平坂学問所が建てられた。明治維新後、学問所跡に一時文部省が置かれ、近代教育の発祥の地となった。

暗闇坂001.jpg(39)暗闇坂

加賀屋敷北裏側と片側寺町の間の坂で、昔は樹木の生い茂った薄暗い道だったとの事で暗闇坂と呼ばれる。

落第横丁001.jpg(40)落第通り

大正から昭和にかけてビリヤード場や飲食店が多く、遊び過ぎて落第してしまうことからこう呼ばれるように。

サッカー通り02.JPG(41)サッカー通り

先に紹介した傘谷坂のある道。日本サッカー協会ビルが建ってから「サッカー通り」と呼ばれている。

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