学生・教職員2万人の大学。
東京大学は教職員、学生合わせて2万人。敷地の大半が加賀百万石の前田家の上屋敷でした。ちょっと昔話をすると幕末時の高等教育の中心は湯島聖堂と昌平坂学問所が主となっていました。当時は儒学が官学でもありました。それに対し洋学の研究所は九段下の開成所(審書調所)と神田お玉が池の医学所(種痘所)でした。時代の流れで教育方針も儒学から洋学への転換が始まり開成所が大学南校、医学所が大学東校と改名(湯島聖堂から見て南と東)。以後南校と東校がひとつとなり明治10年に東京大学として発足。本郷での東京大学は医学部から始まり法文理三学部が入り、遅れて工科大学が入り現在の骨格をなします。1923年の関東大震災でキャンパスは壊滅。復興では医、法、文、理、工の5学部に、農学部、経済学部、教育学部、薬学部が加わりました。
安田講堂は日本の四大財閥の一つ安田財閥の創始者・安田善次郎の寄付により建設されました。正式には東京大学大講堂と言う。収容人数は1,144席(3階席・728席/4階席・416席)。安田講堂のイメージは「東大のシンボル」「学生運動の象徴」とよく聞きます。特に中高年の人たちはテレビに映し出された安田講堂屋上から機動隊に火炎瓶を投げつける光景は鮮明に頭の中に残っています。今の安田講堂からは想像もできない光景でした。
将軍の娘を迎えるときの門で文政10年建立。同年十一代将軍家斉の娘溶姫は前田家13代斉泰に媛入りした。将軍の姫三位(官位)以上の大名に嫁した人、その居所を御守殿(四位以下を御住居)と称した。斉泰が安政2年に中納言に任ぜられ溶姫は御守殿となり門も御住居表御門から御守殿門と称された。切妻造本瓦葦、三間の薬医門で、朱塗りの木部と黒金具、その左右に唐破風造の番所を置く。屋根瓦には葵の紋、梅鉢の紋、まだその意味が解明されていないが大・中・小サイズの学の文様がある。大御門の黒門に対して赤門と呼ばれ赤門は焼けたら再建を許されず加賀蔦(消防隊)が守護した
元和元年、大坂城落城後加賀藩前田家が、現東大の敷地を幕府から賜わった。寛永3年、三代利常の時、三代将軍家光訪問の内命を受け殿舎・庭園の造営にかかった。外様大名として幕府に誠意を示すため大工事が行なわれた。国元から職人・農民を召集して三か年を要した。この時に造られた庭園が育徳園と呼ばれ、池は心字池といい、八景八境の勝があり、築山小亭を設けて数奇を極めたという。当時江戸大名庭園中第一と称された。夏目漱石の名作『三四郎』(明治41年)の小川三四郎と里見美禰子との出会いの場がこの池のほとり、心字池は誰いうとなく三四郎池と呼ばれた。
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湯島と池之端